2014.07.07 より
城山その2 城戸・石塁散策 [遠出]
昨日載せた浅茅湾の景色。
強風が吹いた山頂からのものがなかったので、載せる。
海に浮かぶ島影風景なら瀬戸内海も有名だが、ここの浅茅湾は深く入り組んだ入り江とひょうたん島のような小島の風景が、まさに絵はがきのように美しい。
そして方向から(多分)白嶽と思われる山影を望む。
500mそこそことは思えない威容に感ずる。
さすが「神の山」。パワースポットかな。
さて、軍用道路から外れて丸木を敷いた坂道を下るとビングシ山への鞍部に出る。
ここに休憩所がある。さて弁当でも・・・・。
イヤイヤ、休憩所とは仮の姿。防人の住居跡だという。
住居はもちろん一つではない。
確認されただけでも3カ所。もっとあっただろうな。
周囲には防衛のための土塁や柵、門跡があった。
門柱穴をうがった石。
対のものは発見されず、もう一つおいてあるものはレプリカだという。
ここからさらに下に降りると、「二の城戸」に出る。
このお城、金田城(かなたのき)は海岸沿いおよび山頂にかけての急傾斜地を石塁・土塁で囲んでいる。
その海岸沿いに北から、「一の城戸」、「二の城戸」、「三の城戸」という城門がある。
黒瀬湾から上陸してくる敵を防ぎ、あるいは打って出て反撃するためだろう。
西暦663年に白村江で破れた日本軍は大慌てで防備体勢を準備した。
その最前線がこの対馬の金田城だ。
山頂には危急を知らせる烽火台があったとされている。
この城は構造から「朝鮮式山城」とのことだ。
朝鮮軍と戦うのだから朝鮮式?・・・。
え、和式というのが当時あったのか? 無かったのなら、わざわざ「朝鮮式」というのも変だ。
和式山城が当時あって、それが優れているのなら誰と戦おうがそれを使えばよいと思うが、全然知らないので何ともいえない。
1350年前のこと、国家機構や国民意識は未熟とイメージしてしまうが、はるばる東北地方から徴兵されてきた防人たち。
外国との戦争のための兵役。
彼らの思いはどんなだっただろう?
二の城戸は三つの城戸の中でもっとも良く残っているようで。城門跡および内部には平らな敷石も残っているようだ。
だが、水害などで石垣が崩れ、現在補修中のようで、どこからどこまでが補修・復元なのかよくわからなくなっている。
補修・復元も大切なことだが、今回はなるべくそれを避けて写真を撮ってみた。
門に向かって左側の石垣
城門から海に向かっての通路
一の城戸付近の石塁
石塁の内側は低くなっていて通行できるようになっている。
三の城戸の石垣
一の城戸、三の城戸にも海へ出られる通路がある。
一の城戸より北側には大吉戸神社があるらしいが、行かなかった。
一の城戸の立て札にはその記載がなかったし、それらしき遊歩道はあったものの、行き先表示がなかったので、雨が降りそうな天気が続いていたこともありあきらめたのだ。
さらに今から思えば、一の城戸、三の城戸の海への通路を降りてみるべきだった。
下から見上げた石垣を撮せたかもしれない。
猿でもするという「反省」を、遅きに失しているがする。
ちなみに「反省」は個人的にするものだから、「おわび」ではないよ。
だれかさん!
強風が吹いた山頂からのものがなかったので、載せる。
海に浮かぶ島影風景なら瀬戸内海も有名だが、ここの浅茅湾は深く入り組んだ入り江とひょうたん島のような小島の風景が、まさに絵はがきのように美しい。
そして方向から(多分)白嶽と思われる山影を望む。
500mそこそことは思えない威容に感ずる。
さすが「神の山」。パワースポットかな。
さて、軍用道路から外れて丸木を敷いた坂道を下るとビングシ山への鞍部に出る。
ここに休憩所がある。さて弁当でも・・・・。
イヤイヤ、休憩所とは仮の姿。防人の住居跡だという。
住居はもちろん一つではない。
確認されただけでも3カ所。もっとあっただろうな。
周囲には防衛のための土塁や柵、門跡があった。
門柱穴をうがった石。
対のものは発見されず、もう一つおいてあるものはレプリカだという。
ここからさらに下に降りると、「二の城戸」に出る。
このお城、金田城(かなたのき)は海岸沿いおよび山頂にかけての急傾斜地を石塁・土塁で囲んでいる。
その海岸沿いに北から、「一の城戸」、「二の城戸」、「三の城戸」という城門がある。
黒瀬湾から上陸してくる敵を防ぎ、あるいは打って出て反撃するためだろう。
西暦663年に白村江で破れた日本軍は大慌てで防備体勢を準備した。
その最前線がこの対馬の金田城だ。
山頂には危急を知らせる烽火台があったとされている。
この城は構造から「朝鮮式山城」とのことだ。
朝鮮軍と戦うのだから朝鮮式?・・・。
え、和式というのが当時あったのか? 無かったのなら、わざわざ「朝鮮式」というのも変だ。
和式山城が当時あって、それが優れているのなら誰と戦おうがそれを使えばよいと思うが、全然知らないので何ともいえない。
1350年前のこと、国家機構や国民意識は未熟とイメージしてしまうが、はるばる東北地方から徴兵されてきた防人たち。
外国との戦争のための兵役。
彼らの思いはどんなだっただろう?
二の城戸は三つの城戸の中でもっとも良く残っているようで。城門跡および内部には平らな敷石も残っているようだ。
だが、水害などで石垣が崩れ、現在補修中のようで、どこからどこまでが補修・復元なのかよくわからなくなっている。
補修・復元も大切なことだが、今回はなるべくそれを避けて写真を撮ってみた。
門に向かって左側の石垣
城門から海に向かっての通路
一の城戸付近の石塁
石塁の内側は低くなっていて通行できるようになっている。
三の城戸の石垣
一の城戸、三の城戸にも海へ出られる通路がある。
一の城戸より北側には大吉戸神社があるらしいが、行かなかった。
一の城戸の立て札にはその記載がなかったし、それらしき遊歩道はあったものの、行き先表示がなかったので、雨が降りそうな天気が続いていたこともありあきらめたのだ。
さらに今から思えば、一の城戸、三の城戸の海への通路を降りてみるべきだった。
下から見上げた石垣を撮せたかもしれない。
猿でもするという「反省」を、遅きに失しているがする。
ちなみに「反省」は個人的にするものだから、「おわび」ではないよ。
だれかさん!
2015-05-19 15:23
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