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2014.07.07 より

油彩教室(14) 出品作その5 [絵]

入門教室作品展への出品作その5
「Tシャツの女性」 油彩 キャンバス F15号

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自分としては今までで一番大きな作品。
小さい方が簡単なようだが、F6などの小さなキャンバスでは、全身を入れると顔が小さくなり、かえって難しいと言われたから。
いい悪いではなく、勉強のためにほぼ全身を入れたかったので、このサイズにした。
F6で、首から上の構図にしている人もいた。

顔ももちろん難しいが、手や足も、いざ描くとなると難しい。
それに、いつも大きさの比率を間違うので、そのことも頭にあった。

この絵については、描いては写真に撮り、また塗り直して写真に撮りして、2~3回描き直した。

最初、先生が手を入れてくれて、できあがっていたのだが、見ているうちに、例のごとくおかしいと思うようになり、塗り直してしまった。
顔色がだんだん悪くなって病人のようだと思えてきたのだ。
それで、血色良くしようと明るい色を使って、暗い色はなるべく使わないようにした。

まあ目的は達したと思ったのだが、先生によると肌の色として、いわゆる肌色と言われる赤・黄系統だけ使っていると(何とかで・・失念)良くないのだそうだ。
そこで、血の色(静脈血?)を感じさせる緑系統の色を要所要所に使う。
最初は違和感があるかもしれないが、最終的には良くなるのだそうだ。

そういうことでこの絵も手を入れてもらっている。
そのため、顔色はまたやや悪くなったが、先生を信じて、これで見守っていこうと思う。

自分の発想・価値観が変わるかもしれない。

油彩教室(13) 出品作その4 [絵]

今日は作品展の搬入、展示日。
庭の草取りもやらなくちゃならない。
門の前の桜もつぼみがふくらんできた。


入門教室作品展への出品作その4
「花」 油彩 キャンバス F6号

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どうも何ともいいようのない作品。
同じ花なら「ドライフラワー」が好みなのだが、絵がめちゃくちゃだから、こっちの方を出すことにした。

花のかなりの部分は先生の技による。なかなかああいう風に描けない。

落ち葉は自分がほとんど。

水彩で落ち葉を描いたら、意外とうまく雰囲気が出たので、図に乗って油彩でもやってみたが、水彩ほどの味は出ていない。

まあいいや、どんなでも。自分の絵だ。

油彩教室(12) 出品作その3 [絵]

呉市美術館入門教室の作品展は、

3/22(金) ~ 3/24(日)

明日は作品の搬入、展示する日
額に入ってるから重いんだ。額なんかに入れるようなモノじゃないけど、展示できないから。
額がまた高い。通販で一番安そうなやつを買ったけど。
でも是で一区切り。その後どうするか考えなくては。

入門教室の作品展なんか誰が来るかと思うだろうけど、結構くるんだ。
水彩、油彩同じ受付だけど、特に水彩関係が賑やかだ。
何というか素人の良さみたいなものが感じられる。

油彩はなんか擦れてる感じ。


入門教室作品展への出品作その3
「晩秋」 油彩 キャンバス F6号

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これから冬に向かおうとする秋の日に、わずかな暖かみを運ぶ日差しが当たっている。
その陽の当たる部分の明るさ・暖かさと、陰の部分の暗さ・冷たさが表せたらなと思った構図。
(キザー(^_^;))

場所は入り船山公園だが、目の前の木以外は架空の想像図(先生のアドバイス)。

先生は「発想が良かったですね」と言ってくれた。「いい絵になった」と言ったわけではないが。

油彩教室(11) 出品作その2 [絵]

昨日の関連で、中学時代のエピソ-ドをもう一つ。
音楽の教師と同様、あるいはそれ以上に体育の教師もまともな授業をしなかった。
この男、クラス担任でもあった。

ある意味で熱血教師の側面もあった。
音楽教師と同様、クラブ活動には熱心で、女子バレーの監督をしていた。
負けると、選手と一緒に泣くこともあったらしい(190センチはある大男だったが)
ちなみに妻は元教え子とのこと。

しかし、授業には出てこなかった。
体育の時間は、晴れならソフトボール、雨ならドッジボールである。
唯一、体力測定の時だけ出てきた。(どこかに報告義務があるんだろう)

担任でもあったから、級友も含めてよく殴られた。(平手だがね)
何しろ大男で、手もうちわのようだった。

他の中学の内容は知らないが、おかげで、器械体操やボールゲームの基本とか一切知らないで高校に行くことになった。(高校も受験主体だから特に不都合があったわけではないが)

入門教室作品展への出品作その2
「人形」 油彩 キャンバス F10号

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この絵を見て、何で人形をわざわざ描くのかとか言ってはいけない。
人形(子供のピエロ? 魔法使いのおねえさん?)の素材の質感、立体感をうまく出せるかだ。

なんて、実は、あまりほめることのない先生が「うまくなっていますね」とかいってほめてくれたのだ。この先生、「存在感が出ていますね」「どっしりとしていますね」 とか、よく分からないほめ言葉の時は無理矢理感が否めない。しかし、今回は本音だと思いたい。ただし、うまくなったというのは、以前のあなたと比べればという話だから、相対的なもので、喜ぶほどのことではないかもしれない。

ただ、自分でもこの絵を描いているとき、”え、俺ってうまくなってる?”とちらっと思ったのだ。

この絵のどこに進歩が認められるのかとか聞けば良かった。

油彩教室(10) 出品作その1 [絵]

音楽、特に楽器の演奏や歌は、当然だが楽譜があり、その通りに演奏をし、歌わねばならない。それから外れれば、誤りということになる。

ややこしいことに、自分が音痴で正確には歌えない人でも、他人が調子外れの歌を歌っていることはわかるのである。

だから歌や演奏には正解があると思う。
もちろんある水準以上の人には、また別の意味で、正解がないとかいうこともあるかもしれないが、それはここの話とは関係のない話だ。

音楽も含めて芸術には基礎的教育が必要だ。
できないやつにもできないなりの教育がなされるべきだ。

それによって楽しみも広がる。
俺の中学時代はそう意味では暗黒だ。
音楽の教師たるや、まともな授業をやった記憶がない。

あの男の記憶は、ブラスバンドの指揮を執る姿、気まぐれに生徒を殴る姿、ペーパーテストで成績のよかった自分に苦笑しながら、通信簿に5(最大の屈辱)をつけた姿ぐらいしかないのだ。


入門教室作品展への出品作その1
「若い女性」 デッサン(鉛筆画) F15号相当の画用紙

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このモデルの女性、実は先生の娘さんである。
今、大学生かな。

多分であるが、YWCAのデッサン教室でも描いたことがあると思う。
そのときは、たぶん高校生。

そのときの絵と比べれば、かなり進歩したと思う。

ただ、そのときも、描いた当分はよく描けたと思ったのだ。

しかし、家に飾って毎日見ている内に、なんだこんなものと思うようになり、そのうち、もう見たくないという絵になってしまった。

今この絵も、なんだこんなものという段階には来ていないが、描いた当分の評価からは落ちつつある。

それで、この絵を出品したら、先生が自分の娘をこんなに描きやがってとか怒らないだろうかと心配になり、自分で見つけた矛盾点は直し(写真はなかったので、自分で矛盾点を想像して修正した。これはいい訓練になった)、背景も少し変え、その上で先生に直してもらった。

先生は、左足のつま先の向き(自分でも変だと思っていた)を修正し、椅子も修正してくれた。いちいちごもっとも。はじめから自分で直しとけよ(-_-;)。

いかな先生でも作品自身の質を上げるのは無理だろうね。
ともかく、先生に出品してもいいか?と問い、同意を得たのだ。

油彩教室(9) 自画像 [絵]

自分が、なぜ、趣味として絵に取り組もうとしたか。
おおざっぱに言えば、成り行きと消去法といえる。
あまり積極的なモノではない。
だから、またいつやめるかもしれない。その程度のものだ。

高校時代の芸術科目といえば、絵画、書道、音楽だが、このうち、絵画と書道は同じ造形を扱うものとして、共通性はあるものの、似て非なるところがある。

書道には一定の型が確立されている。

型破りの字といわれても、一定の原則が貫かれている。そうでなければ美しくは見えない。

音楽はさらにそうだ。

絵画はその点では自由だ。

何を描いても、(下手か上手かは別として)絵は絵だ。

書道や音楽はそうではない。

一定の約束事を守らねば、字ではないし、音楽ではない。
(ちょっと極論かな。音楽にも鍋の底をたたくような素朴な一面もあるから)

芸術とは脳の中の欲求を満たすものだ。

絵画は、網膜に写った外界を、脳が歴史的、経験的に積み上げて、、解釈し、そこからできた美意識を元にした欲求を満たすものだから、人それぞれだし、価値観は多様だと思う。

そうそう、なぜ絵をやろうと思ったか。
音楽は楽器も歌も全然だめ。(加えて中学時代、まともな音楽の授業はなかった。絵の授業もなかったけどね。信じられない?そういう時代だったんだ)
書道も同様。今、退職してから通信講座を受けている。(ボールペンと筆ペン)



油彩 F6号

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年度末恒例の自画像。
去年も描いた。

去年と比べて進歩したかなあ。
何となく進歩した気がする。(自画自賛)
ただ、今回の作品展には出すまいと思う。
去年出したし、客観的にどこが進歩したといえるものがないから。

自画像はモデルがいらないから、西洋の画家たちは売れない時代に沢山描いているらしい。

比べるのはおこがましいが、自分もこうして絵の教室にいるから、若い女性のモデルを描くことができる。そうでなかったら、たとえモデル代を払うからといっても、一人で若い女性に頼めないだろう。一応の画家ならいざ知らず。

不満でも自画像を描くしかない。

油彩教室(8) ドライフラワー [絵]

このところ天気もよく、上空の偏西風も弱くなって北上および南下している模様。
惑星の撮影条件が整ってきたのかなと思うが、やはり、土星の撮影は難しい。
カメラを買った方がいいのか。もう少しがんばってみる。


油彩 F6号

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主にペインティングナイフで描いた作品

ナイフの使い方は、昨年度もやったが難しい。
そもそも筆でだってうまくは塗れていないんだから。

絵の具はナイフの面やエッジにつけて、キャンバスに盛りつけるように塗る。
当然、筆と比べ、大量の絵の具を使う。

絵の具の固まりをべたっと盛るので、下の絵の具の色と混じらない。
よって、絵の具が乾いてない状態でも上から塗ることができる。

絵の具を盛るので、レリーフのように盛り上がる。それが、より立体感を感じさせる。

この絵は、花瓶や花の形などは、めちゃくちゃである。(ナイフがうまく使えないから)でも、何となくいい感じの絵だと思う。(自己満足)

最後に、先生に筆で修正してもらっている。(特にテーブルに奥行きを出すところなど)

でも、めちゃくちゃなので、作品展には出さない。

油彩教室(7) ランプ他 [絵]

昨夜は三日月、今朝は土星の撮影を試みた。
天気はよかったが、上空の気流はそれほどよくなかったかな。

夕べは風が冷たくて、根気が続かず、すぐ撤収。
今朝も、なぜだか、土星がカメラの写野から外れ、その後、コントローラーの方向を間違え、戻ってこなかったり、根気がくじかれることばかり。
特に、コントローラーの方向をすぐ忘れて。今度メモして貼り付けておかなくては。

夕べは灰が峰にあがったら、カノーブスを見れたかもしないな。

油彩 F8号

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油彩 F6号

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上の絵は昨年度末に教室で描いたもので、描きかけだった。
最近になって、そのときの写真を見ながら描き直した。
だから先生の手は入っていない。

人形の顔(人形らしい顔)に苦労した。
あと、ランプの形のゆがみとか。

写真は絵と同じ2次元だから、絵にするのに便利な面がある。
自分みたいに絵を描き込んでいない人間は、描いている内に視点が動き、部分部分のつながりに矛盾が生じたりする。あとでかなり無理矢理つじつま合わせをしたり、全面修正をしたりすることになる。
写真を写すには視点のずれなど無いから、その点では楽である。

反面、暗い部分や陰の部分が見えないから、絵自身が平板になりやすいし、実際の見た目との印象に違いが出やすい。
先生は写真で絵を描くと、細かいところが気になって、大きなところがなおざりになるというのだが。といって、描きかけの絵について、写真で続きを描く分には特に何も言わない。

下のランプの絵。
今年度の練習作。
傘の下のガラス部分にハイライトを入れてガラスらしくしたのは、先生の技。
何となく何を描くのか分からず、気が乗らなかった作品。

油彩教室(6) 木炭画 [絵]

デッサンといえばデッサン
鉛筆ではなく木炭(絵画用)で描く。
紙も木炭画用。

鉛筆画のように細部にこだわらず、大きな流れで描く。

木炭はざっざっと描けば真黒くなるので、黒く塗り込むのは鉛筆より楽である。
消すときにもティッシュや布で炭の粉を落とす。

消せるといっても炭の粉が紙の目に入っているので、完全には消せない。

基本的にはザーッザーッと大きな固まりを描き、あと黒くなり過ぎた部分を消すという具合。

とまあ、これは先生が言った理想の描き方。

実際はできなかった。

下の絵、あとから先生が直したあとがくっきり。

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こんなにも違っていたのか。がっくり。
今までの、描いては直し、描いては直して、少しずつ真実に近づくというやり方では通用しない。

ちなみに先生は直しながら、正しい像に近づいていく。モデルはあまり見ない。
あとで写真を撮って見比べてみてもやはり先生は正しい。あたりまえ。

反省して、その後、木炭用紙を買い、自画像を木炭で描いてみようと思ったが、未だ実行していない。

油彩教室(5) クロッキー [絵]

昨日は、またまた春の陽気となった。
まさに三寒四温の季節だ。

暖かくなったということもあり、3年前まで勤めていた会社を訪問した。
広島旧市内から、西風新都に半年前移転した。
初めての新社屋・工場訪問。

新築だからといえばそうだが、きれいで、働きやすい環境になったようだ。
突然の訪問にもかかわらず、温かく迎えてくれ、ありがたかった。
会社は継続することが難しいし、大事。というのは故創業者の言葉だが、今後もがんばってほしい。

夕方、灰が峰にあがって、彗星をみようと思ったが、いつにもまして下界はもやっていて、西の山際付近は厚い雲がかかり、日没直前あきらめて下山した。残念。

さて今日のテーマ。
クロッキーとは早描きのスケッチといっていいんだろうか。
モデルを前に、我々の教室では、10~15分ぐらいで描く。

モデルが1回のポーズ15分くらいだから、休憩後は、別のポーズで描く。
この入門教室は3時間だから5~6ポーズを描く。

一般的には、目的に応じて、1~2分で描くことも多いらしい。

同じ習い始めとはいえ、絵が好きで、絵がうまく、絵の関係する進路を目指している、芸大美大受験生(先生がYWCAで受け持っている)と自分とは大違い。

デッサンとは違うから、間違っててもいいからどんどん描けといわれても、どこから手をつけていいやらの状態。

それでも去年は全く描けなかったものが(そもそも形に残っていない))、今年度は写真を見て若干練習したこともあって、何とか数枚は描けた。
(写真を見て練習することがいいことかどうかは知らない。邪道かもしれない)
そのうちの2点

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先生によると、早く描くと一番必要な線が分かってくるのだそうな。

ウーン! イミシン!

デッサンの時は、線は目立たせるな。そもそも線はないのだからといっておきながら。

しかし、たしかに1~15分で描くということになると、効果的な線をさっさと引くことでしか描けないことになる。もちろん”いい絵は”という話ではあるが。

水墨画などを見ると、太い線で黒々とズバッと引いている線がある。
それを見ても違和感なく、美しく感じる。

写真を見れば明らかなように、現実には線などない。境界があるだけだ。
違和感を感じないということは、我々の脳は線をみているということなのか。

1万年以上前のアルタミラの洞窟画をはじめとして古代から人間は線で描いてきた。
しかし、脳が感じるからといって、それを実行することは別の系統だ。
なかなかできない。が、あこがれる。

油彩教室(4) [絵]

右脳人間の話
かつて「相棒」というテレビドラマが好きでよく見ていた。
その中で、ある知恵遅れの青年が殺人現場の精密な絵を描く。
それをもとに杉下右京が真実に迫っていくわけだが、青年はその絵を殺人現場として描写したのではなかった。
何人かの人が描かれている絵の片隅にネズミがいるのだ。
彼はそのネズミを描こうとしていたので、殺人現場は無意味なバックグラウンドに過ぎなかったのだ。
こういう一瞬の場面を写真のように記憶する 能力を持った人がいるのだという(右京談)。

いや全くすばらしい能力だが、我々の脳にもその片鱗はある。
人物を描くとき、その顔の部品が1mmずれても変だ、違うと気づくのである。

相棒に出てきた青年のように、それを画像に復元はできないのだが。

油彩教室の先生曰く 「人物描写は基本」
その理由の一つは、ごまかしがきかないこと
1mmずれても変だと気づく人間の能力の由縁だ。

見る人はモデルを知らないから、こういう顔なんだと思ってくれるだろうとはいかないのだ。
その点、風景や花、果物などはゆるい。

さて、昨年度の作品展に出した残り2点

シクラメンのデッサン
出展するものがないので、家で描いたもの

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先生に見せて、少しメリハリをつけてもらった。
よくかけたというような意味のことをいわれたが、まあ半分以上お世辞だろうけどね。

自画像
今年も現在取り組んでいるが、カリキュラムの最後の方にある課題

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自画像も含め人物を描くとき、先生は「似ている必要はないですよ」と盛んにいう。
似せようとして、基本がおろそかになるからということらしい。

この意味がいまいちわからなかった。
見たまま、ありのままを描くなら、似てきて当然。似なければ違うということではないのか。

これにも、画家ではない一般人の先入観が関係しているのではないかと今は少し思う。
特に個々の人間の顔は、我々の印象では相当違うものでも、部品の大きさや位置関係はそんなに違わない。
わずかな変化なのだ。
似せようとするとその変化を強調することになる。

警察ドラマを見ていても、昔は最新技術としてモンタージュ写真なるものが盛んに出てきた。
今は、警察内部の絵の上手な人が、目撃者の話を聞きながら、似顔絵を描いている。
似顔絵の方が、特徴があって、わかりやすいのだともいわれている。
これは一種左脳的記憶に働きかけるからかな。

ところで、自分の自画像は周りからよく似ているといわれた。
しかも、ある種、笑いを含んで。
よって、あまり人目にはさらしたくないのだが、それほどこだわるのもおかしいので。







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油彩教室(3) [絵]

ゆうべは、はじめて望遠鏡を前庭に持ち出し、西の空に向けた。
水星と三日月を撮るためだ。
月はともかく、水星は高度が低いため裏庭では山や隣家で見ることは不可能だ。
水星は見えた。
しかし、写真にはどうも。ぐちゃぐちゃ(^_^;)
しかも、あっという間に雲の中に。
でも、水星を拝めたので満足。
来たる18日が最大離角(太陽からもっとも離れている)らしい。

以前、右脳人間、左脳人間とか話題になったことがあった。
昨日の話でいうと、2次元画像を取り扱っているのが右脳、それに解釈を加え、加工した「3次元世界」を取り扱っているのが左脳ということになる。
右脳は複雑な対象でも、簡単な対象でも、写真のような画像として認識する。
一方、左脳はそれに論理的な解釈を加え、構造的に理解し、認識する。
言い換えると
ある対象物を記録するのに写真に撮って、保存しておく方式と、
文章で描写し保存しておく方式の違いに似ている。
前者は複雑な物でも、簡単に、正確に保存できるが、その構造や、見えない部分については別の知識が必要になる。
後者は、物事を普遍的、論理的に表しており、記憶しやすく、応用しやすい情報となる。しかし、複雑な物を正確に描写しようとすれば、膨大な情報量となる。また、論理的に解釈できない部分は、抜け落ちる可能性がある。

脳の右と左で役割分担がある。右と左で勢力争いが起こる。などは、学問的にはどうも怪しいと思う。

しかし、外界を視覚的に認識する場合において、二つの機能が葛藤しているという感覚は、絵の練習でも、しばしば感じることである。

ある入門書にも書いてあることだが、先生にもいわれた。人間の顔なら顔を描くとき、その顔を描こうとせず、バックグラウンドを描けと。

バックと顔の境目は同じだが、顔については、いいも悪いも先入観がいっぱい。しかしバックにはないからだ。

見たまま、いわゆる右脳的認識で描きなさいということだ。
それが難しい。

さて、油彩教室の絵だが、昨年度の期末の作品展に出した作品4点のうち2点だ。

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いいか悪いかわからない。瓶のガラスっぽさを出したのは先生の技。
自分ではよく描けたと思っている。

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教室が開かれている呉市立美術館に隣接する入船山記念館での写生
もう少し、木の葉の感覚を出したかった。
先生は細かいところより、流れが大事というのだが、その意味はまだ理解できていない。
ちなみに構図は、先生のいうとおり。(初心者だから)
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油彩教室(2) [絵]

当たり前の話だが、絵を描くとは3次元の対象物を2次元に表す行為である。
この点では、写真も同様である。

対象物をみて、あるがままに描くことが絵の基本だろう。

しかし、我々がみている3次元とは、網膜に映った画像が元であるが、その画像もまた2次元である。
我々は3次元のモノを2次元に描くことの難しさに四苦八苦しているわけだが、我々のセンサーも2次元で外界の情報を収集しているのである。

では、なぜ絵を上手に描くことが難しいのだろうか。

それは、網膜からの画像信号に、脳が経験とか、遺伝的能力を使って、画像処理する(解釈を加える)からである。
我々が知覚するのは、網膜に映る2次元画像ではなく、脳が作った「3次元空間」なのである。
そして、その「3次元対象物」を元に、それを2次元に表す作業を行っているのが絵というわけだ。

だから、写真に写る画像と、自分の目で見た印象が相当違うことはしばしばある。

目の錯覚(実は脳が加えた画像解釈の誤り)を利用した、だまし絵などはわかりやすい例だが、絵の練習では、しばしば自分の間違った固定観念に苦労する。

人の顔を描くとき、目を上の方に描いてしまう。(目はほぼ中央)
手(手のひら)や耳を小さくかいてしまう。(意外と大きい)
首を細く描いてしまう(首は意外と太い)

そのほか、人体の各部品の、色や大きさ、位置が先入観と違うことは多々ある。

画家とか、先天的に絵のうまい人は、その違いがあまりないか、違いを客観化できているので、絵を描くときに障害とならないのだろう。

しかも、おもしろいことに、先入観に影響されて間違った絵を描くと、自分自身にもそのおかしさが、何となく、わかるのである。要するに、脳の中には「3次元化」された情報とは別に、その元の2次元画像も保存されているのである。

さて、昨日に引き続いて、昨年度の油彩教室の課題を載せよう。

この絵は先生が連れてきた高校生ぐらいの女性がモデル

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はじめはそんなつもりはなかったのに、描いていくとどんどん(絵中のモデルの)姿勢が悪くなり、顔色も悪くなった。
そこで、もう一度、別に同じ絵を描いてみたが、先生のいない状態で描いたので、この絵よりうまくは描けなかった。


この絵は、ペインティングナイフを使って描く課題

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ペインティングナイフは難しい。これは先入観とか絵心とかは関係なく、手先の問題である。
パイナップル部分は先生の作品。
途中で投げ出した。
ナイフの絵も描きたいので、相当練習が必要だ。




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油彩教室(1) [絵]

昨夜はよく晴れていた。
夕方、西の山の上に、水星と月齢1の月が見えた。
この間、月齢28の月を撮影しようとして、確認できなかったので、何の準備もしていなかった。
出てても木の陰で見えないとも思っていた。
あわてて、カメラをセッティングしようとしたが、薄暗がりで、間に合わなかった。
後悔(-_-;)

しかし、高空の気流は相当悪かったらしく、木星の撮影は全くだめ(>_<)
プレアデス星団の写真のみ撮影。どういう画像か楽しみ(^_^)

さて、この近年、趣味で絵を描く人は増えていると思う。
高齢化だからある意味当然といえば当然。
しかし、統計をみたわけではないが、高校生で絵画・デザイン系を志望する人も増えているんではないかと感じる。
何故なのだろう。

昔は、絵は今の写真の役目もしていた。
肖像画は昔の絵師、画家の重要なテーマであり、仕事だった。

今は写真がある。
しかも、携帯電話も含め、身近にカメラがあり、誰もが思い思いに写真を撮り、友人と交換したり、ブログで公表したりしている。

そして、写真の役回りは、本来の記録にとどまらず、自分の思いや、感動を表す手段にもなっている。
そんな中で、絵とは。

何で習ってまで絵を描こうとしているのだろう。
自分だけではなく、多くの人が・・・。

今、自分は呉市立美術館の初心者向け油彩教室に行っている。昨年度からだから、一昨年の4月からだ。
この教室は、初心者向けで、1年間のカリキュラムだが、初心者の数が少ない場合は、経験者も受講できるようになっている。

でも、この前書いたように、今年度で終了するらしい。

昨年度、練習で描いた作品。

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油彩の方は、先生が描き方を教える一環で、手直ししてくれて、絵の格好になっている。
手直ししてもらうことがいいのかどうか。
その絵の格好はついても、もう一度描けといわれて、描ける状態ではないのだから。

デッサンは先生の手があまりはいっていない。

そのときはうまくかけたと思っていたが、今みるとなんか変、すごく変。

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