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2014.07.07 より

油彩教室(4) [絵]

右脳人間の話
かつて「相棒」というテレビドラマが好きでよく見ていた。
その中で、ある知恵遅れの青年が殺人現場の精密な絵を描く。
それをもとに杉下右京が真実に迫っていくわけだが、青年はその絵を殺人現場として描写したのではなかった。
何人かの人が描かれている絵の片隅にネズミがいるのだ。
彼はそのネズミを描こうとしていたので、殺人現場は無意味なバックグラウンドに過ぎなかったのだ。
こういう一瞬の場面を写真のように記憶する 能力を持った人がいるのだという(右京談)。

いや全くすばらしい能力だが、我々の脳にもその片鱗はある。
人物を描くとき、その顔の部品が1mmずれても変だ、違うと気づくのである。

相棒に出てきた青年のように、それを画像に復元はできないのだが。

油彩教室の先生曰く 「人物描写は基本」
その理由の一つは、ごまかしがきかないこと
1mmずれても変だと気づく人間の能力の由縁だ。

見る人はモデルを知らないから、こういう顔なんだと思ってくれるだろうとはいかないのだ。
その点、風景や花、果物などはゆるい。

さて、昨年度の作品展に出した残り2点

シクラメンのデッサン
出展するものがないので、家で描いたもの

P2080186縮.jpg


先生に見せて、少しメリハリをつけてもらった。
よくかけたというような意味のことをいわれたが、まあ半分以上お世辞だろうけどね。

自画像
今年も現在取り組んでいるが、カリキュラムの最後の方にある課題

P2080184縮.jpg


自画像も含め人物を描くとき、先生は「似ている必要はないですよ」と盛んにいう。
似せようとして、基本がおろそかになるからということらしい。

この意味がいまいちわからなかった。
見たまま、ありのままを描くなら、似てきて当然。似なければ違うということではないのか。

これにも、画家ではない一般人の先入観が関係しているのではないかと今は少し思う。
特に個々の人間の顔は、我々の印象では相当違うものでも、部品の大きさや位置関係はそんなに違わない。
わずかな変化なのだ。
似せようとするとその変化を強調することになる。

警察ドラマを見ていても、昔は最新技術としてモンタージュ写真なるものが盛んに出てきた。
今は、警察内部の絵の上手な人が、目撃者の話を聞きながら、似顔絵を描いている。
似顔絵の方が、特徴があって、わかりやすいのだともいわれている。
これは一種左脳的記憶に働きかけるからかな。

ところで、自分の自画像は周りからよく似ているといわれた。
しかも、ある種、笑いを含んで。
よって、あまり人目にはさらしたくないのだが、それほどこだわるのもおかしいので。







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